2016年12月13日火曜日

宇宙開発は六次産業化を目指せ

先日、ある取材を受けている最中に出てきたアイディアだが、なかなか面白い思いつきだと思ったので、少しここにメモを残しておきたい。本当ならどこかに論文なり記事として出すべきものだが、こういうことは先にブログに書いて、アイディアの発展形成過程を可視化しておく方が良いのではないかと思っている。

このアイディアは北海道における宇宙開発についての取材の中で思いついたものだが、日本全体にも敷衍出来る話だと考えている。

そのアイディアとは「宇宙の六次産業化」である。「六次産業化」という言葉はよく農業の付加価値を高めるための施策として使われる言葉である。とりわけ北海道ではこれまで広大な土地を活用して農産物を作ってきたが、「一次産業」としての農業でとどまっており、付加価値が低い状態で農産物を出荷するだけでは北海道経済に貢献しない、これからは農産物の加工(二次産業)と、レストランなどを通じた販売(三次産業)を展開し、一次産業+二次産業+三次産業で六次産業化していくべきだ、という議論がよくなされる。

これを宇宙産業に置き換えると、打上げ射場や地上局などのインフラは不可欠ではあるが、それ自体が生む付加価値は小さい「一次産業」であり、次いでロケットや衛星の開発・製造という「二次産業」があり、さらには衛星を使った様々なサービスの提供という「三次産業」がある。これらがバラバラで存立していれば、互いに付加価値を高めることはできず、例えば北海道の大樹町で進められているロケット射場の整備だけでは、町の発展に充分寄与することはできず、二次産業であるロケットの製造(現在は小型ロケットの開発拠点がある)に加え、三次産業である衛星を使ったサービスの提供というところまで行かなければならない、ということになる。

これは現在の日本の宇宙産業全体にも当てはまる問題設定と言えるかもしれない。これまで日本の宇宙開発は、ロケット・衛星の技術開発を中心に進められており、ある意味では「二次産業中心型」の宇宙開発を行ってきた(詳細は拙著『宇宙開発と国際政治』第六章などを参考にしてください)。そのため一次産業の射場は整備はするものの、あくまでも「二次産業のおまけ」のような扱いであり、三次産業となるサービス部門はスカパーJSATのような衛星放送サービスなどが育ったとはいえ、様々な理由から二次産業と三次産業が連携した開発を進めてきたわけではなかった。その点では日本の宇宙開発は「二次産業中心型」であり、「六次産業化」に向かうポテンシャルは低かったように思える。

しかし、現在の世界の宇宙開発は大きく変わりつつある。リチャード・ブランソン率いるヴァージン・ギャラクティックは弾道飛行による無重力体験が出来るという「三次産業中心型」の開発を進めているし、GoogleはSkybox(現Terra Bella)という会社を買収してリアルタイムでGoogle Earthのサービスを展開するという「三次産業中心型」の宇宙産業を目指している。この中でカギとなるのは小型衛星の開発とそれらを結びつけるコンステレーションという概念だ。コンステレーションとは、複数の衛星を同時に制御し、それらを結びつけて運用することで全地球的なサービスを展開するという技術である。しかも小型衛星の技術が普及することでそのコストが下がっており、こうした民間主導の「三次産業中心型」の宇宙開発が進むようになってきた。

こうしたグローバルなトレンドの中、北海道における宇宙開発を考える際に重要なのは、北海道には大樹町という「一次産業」を提供する場があり、そこでインターステラテクノロジズなどがロケットを作るという「二次産業」を誘致するところまでは来たが、そこから「三次産業中心型」となる、衛星を活用したサービスを提供する企業を集めるところにある。インターステラテクノロジズは小型衛星を打ち上げるための小型ロケットの開発を進めており、その小型衛星を複数機結び付け、コンステレーションとして運用することでサービスを展開する企業にとっては大変ありがたいロケットである。というのも、小型衛星はこれまで大型ロケットに相乗りさせてもらうか、無理やり国際宇宙ステーションから放出するといった方法でしか軌道に投入することが出来ず、望んだ軌道に投入したり、望んだ時期に打ち上げることが難しかったりする。ロシアなどの小型ロケットを使う場合もあるが、それらを利用できる機会は限られている。そのため、小型衛星打ち上げに特化したインターステラテクノロジズのロケットなどは、「三次産業中心型」のサービスを提供する企業にも有益なものである。

それらの企業を集め、大樹町の射場を軸に、小型ロケットと小型衛星の開発を進め、その衛星を使ってサービスを提供することで「六次産業化」していくことが可能となり、北海道が「六次産業化」した宇宙開発の一大拠点になるという可能性すら秘めていると考えている。

新しい時代の流れの中で、これまでの「二次産業中心型」の宇宙開発から「六次産業化」していくことは、ちょうど農業が「一次産業」から「六次産業化」していくこととパラレルな現象だと思う。この流れをつかめるかどうかは、大樹町を始め、関係者が「六次産業化」を目標とし、一次産業としての射場の整備を進め、二次産業に必要な電力や設備を整備し、三次産業が求めるインフラを整えていくことであろう。それが北海道の次世代の経済を担っていくことを期待したい。

2016年9月22日木曜日

「ガラパゴス恐怖症」

先日、ある宇宙システム関連の会議に出席した。具体的な内容は詳細に示すことが出来ないが、その中で宇宙システムの開発を進める際に「ガラパゴスにはなってはいけない」ということが繰り返し議論されたことに違和感を持った。

「ガラパゴス」とは言うまでもなく、野村総研のプロジェクトチームが使い始め、瞬く間にバズワードとなった、日本の技術開発の特徴を示す言葉である。日本国内の市場における競争がオーバースペックの機能を搭載するゲームになってしまい、その結果、世界市場では見向きもされないということを端的に示す言葉として人口に膾炙するようになった。

この分析自体には異論はなく、携帯電話や家電など、日本のものづくりの「ガラパゴス化」は様々な分野で観察されるし、その理解が当てはまるところも多い。

しかし、今回の会議で気になったのは、あまりにも「ガラパゴス」に対して意識しすぎて、研究開発の場が委縮しているのではないか、という懸念であった。オーバースペックではなく、グローバル市場で売れるものを作れ、という至上命題に対し、過剰反応しすぎているのではないか、という懸念である。

というのも、オーバースペックでグローバル市場に売れなくなった家電や携帯電話は、末端のデバイスであり、ユーザーが直接お金を出して買うものである。そこには様々な合理性が働き、一種の人気投票になる。ユーザーの満足度を考えて製品を作るべきだ、という議論に異論をはさむつもりはない。

しかし、宇宙システムは末端のユーザーが直接使うものでも、選ぶものでもない。宇宙システムはインフラであり、ユーザーから見えるものではない。我々が携帯電話を選ぶときに、iPhoneにするのかAndroidにするのか、キャリアをどこのものにするのか、という選択はあっても、どんな周波数を使っているのか、どんなアンテナを使っているのか、どんな光ファイバーケーブルを使っているのかを考えて選んでいるわけではない。

こうしたインフラ部分のスペックの問題を、コンシューマー向けのデバイスを評価するときに使う「ガラパゴス」という概念を持ち出して議論することに疑問を抱くようになった。つまり、日本のものづくりは単にエンドユーザーに選んでもらうためのものだけでなく、その中間にあるキャリアやプロバイダーなどに選んでもらうものであり、そこで評価される軸は何なのか、ということを考えなければならない。

宇宙システムの場合、オーバースペックであるかどうかということよりも、むしろシステムの信頼性や利便性、さらにはそのシステムを利用する際のコストがどのくらいかかるか、といったことが重要な論点になる。その上でスペックが良いものであれば活用するし、もしオーバースペックでコストが高ければ敬遠される。

何が言いたいかというと、「ガラパゴス」という便利で使い勝手の良いバズワードが出回ってしまったために、それに縛られて何でもかんでも「ガラパゴスはいけない」という議論一色になってしまうと、問題の本質が理解できなくなる、ということである。日本における(日本だけとは限らないが)言論空間はしばしばこうしたバズワードに支配され、思考停止状態のままバズワードを唱えていれば、何かを表現した気になる、という環境にある。そのため、本来ならば「ガラパゴス」という表現を使うべきではない問題に対しても、「ガラパゴスは避けなければならない」という呪文を唱えることによって、論点がずらされ、本来議論すべき論点からずれた議論になってしまう。

政策決定は様々な要素によって構成されるが、しばしば、政策を巡る議論はメディアによる論調やバズワードといった与えられた枠組みによって無意識のうちに思考が形成され、それが議論を誘導する。そうしたバズワードやはやり言葉に振り回されることなく、政策の本質的な問題を考え、議論することを、公共政策に関わる一員として常に胸に刻んでおきたい。

2016年8月12日金曜日

トランプ氏と鳥越氏の共通点

先日、ハフィントンポストが東京都知事選に出馬し落選した鳥越俊太郎氏のインタビューを掲載し、話題になっている。

「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】 http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/10/shuntaro-torigoe_n_11422752.html

この記事を読んで一番最初に浮かんだのは「トランプと同じじゃないか」という印象でした。かなり乱暴なまとめではありますが、いかに両者の共通点を並べてみます。
  • ボキャブラリーが貧困
    • 鳥越氏はジャーナリストであったにも関わらず、「ペンの力って今、ダメじゃん」といった表現の稚拙さが浮き彫りになる箇所が随所に見られた。
  • 討論会を避ける
    • トランプ氏も予備選の討論会を欠席したり、共和党候補になってからも大統領討論会の日程に文句をつけるなど、討論を避ける傾向にあるが、鳥越氏も「ニコニコ生放送」などを避けて登場しなかった。
  • 自分の能力に対する過剰なまでの自信
    • トランプ氏は党大会の演説でも「私だけが問題を解決できる」と言ったが、鳥越氏も何の準備をしていなくても「本当に急ごしらえでガーッと詰め込まなければいけない仕事をしてきているわけ。50年間。だから、それについてはそんなには心配なかったよ」と過剰なまでの自信を見せている。
  • 職責と権能についての理解が不足
    • トランプ氏は「壁を作ってメキシコに払わせる」といったが、大統領の権限としてそれは不可能ではないが、かなり非現実的な政策。鳥越氏は都知事に立候補していながら国政の話ばかりをしていたと本人も認めているが、都知事が国政に影響するのは不可能ではないとはいえ、かなり非現実的。
  • 発言の一貫性のなさ
    • トランプ氏の一貫性のなさは折り紙つきで、トランプの発言が矛盾していることはいろいろなところで指摘されているが(例えばYoutubeの動画)、鳥越氏もこのインタビューで「ペンの力はダメ」と言いながら、週刊文春の報道に右往左往したことなどを語り、ジャーナリストとして、かつては政治家などの説明責任を求めながら、「説明責任というのは美しい言葉だけど、実際にはこれほど難しいことはないんですよ」と語るなど、発言の一貫性のなさが目立つ。
  • 他者への責任転嫁
    • トランプ氏は支持者集会などで暴力沙汰が起こると、それは自分のせいではなく、サンダース支持者やヒラリー支持者が紛れ込んで騒動を起こそうとしていると責任転嫁するが、鳥越氏も都知事選で宇都宮氏が支援を拒んだのは「僕ではなくておそらく、共産党(に対する思いがあった)」と支持を取りやめた共産党のせいにしている。またトランプ氏は自らの批判が高まるのは反トランプメディアのせいだといっているが、鳥越氏もインタビューの中で何度となく「選対の判断だから」と選挙スタッフに責任転嫁している。
  • メディアに対する不信感
    • トランプ氏は自らを批判する新聞社やニュース局の記者に対して取材拒否や記者証の没収など強硬な措置を取っているが、鳥越氏も「僕はニコ生は基本的にメディアとして認めていない」とか「あなたたち(ハフポスト日本版)には悪いんだけれど、ネットにそんなに信頼を置いていない。しょせん裏社会だと思っている」といった発言をしている。
ざっと挙げただけでもかなりの共通点があるように思える。もちろん鳥越氏はトランプ氏と異なる点もたくさんあるし、トランプ氏のような対立候補の暗殺を示唆するような暴力性は持たない。しかし、政治家としての自覚や責任、自らの言葉に対する一貫性や論理に関しては共通する点が非常に多く、このハフィントンポストのインタビューを読んだ時はさすがに戦慄した。

アメリカ大統領選という世界で最も影響力のある公職に就く選挙であり、そこにトランプ氏のような人物が二大政党の正式候補として指名されたことは、アメリカ民主主義の危機として不安視する人も多い。しかし、日本はトランプ氏を選んだアメリカを笑うことも蔑むこともできない。日本でも野党四党が統一候補として鳥越氏を担ぎ出し、人口にして1300万人、GDPにしてメキシコと同等の1兆1687億ドルの規模を持つ東京都の知事としてこうした人物を担ぎ出したということは、日本の民主主義の危機を示しているとも言えるのだから。

追伸:この記事はハフィントンポストの鳥越氏のインタビューだけを対象に見ており、彼の選挙戦や過去の発言、週刊誌が取り上げた案件などについては、私自身、きちんと見ていたわけではないので言及していません。

2016年7月1日金曜日

二日酔いに苦しむイギリス

EU離脱という答えを出したイギリスの国民投票から一週間が経った。この間、EUの諸機関や原加盟国の6ヶ国(独仏伊ベネルクス)の会合や緊急欧州理事会(サミット)が開かれ、イギリスとの事前交渉を拒否する姿勢を明確にし、リスボン条約第50条に基づくイギリスの離脱通告を早期に行うよう促すという議論の流れを作った。

他方、イギリスでは保守党が分裂し、残留を訴えてきたキャメロン首相は党大会までに辞任することを表明し、その後継を巡る保守党党首選が行われることになったが、大本命で離脱派のリーダーであったボリス・ジョンソンは党首選に出馬しないことを表明した。党内に混乱を巻き起こした張本人が、たぶん本人も想像していなかった国民投票での勝利を得てしまったことで困惑し、そこから逃げ出したという構図で、ツイッター上でも #Borisexit というハッシュタグが作られ、大喜利状態になっている。

こうした保守党分裂に乗じて党勢を挽回したい労働党も混乱に陥っている。労働党は党としては残留の立場をとったが、党首のコービンは元々労働運動の闘士であり、反EUの姿勢を明確にしてきた人物。国民投票でも労働党の存在感は小さく、残留に貢献するような活動は出来ていなかった。暴漢に射殺されたジョー・コックス議員は熱心に残留を主張していたことが、彼女が「Britain First(英国第一)」を叫ぶ暴徒の標的になったにも関わらず。こうしたコービン党首の煮え切らない態度や党員とのコミュニケーションの失敗が、彼への信頼感の喪失につながり、労働党議員団による不信任動議は8割がたの賛成を得て、不信任決議が採択されてしまった。労働党の国会議員の大多数から不信任を突き付けられたにも関わらず、コービン党首は自らを「党員によって選出された党首」として位置付け、議員による不信任を無視するという姿勢を決め込んだため、労働党執行部でもある「影の内閣」の半数が辞任するという結果になり、労働党も混迷を極めている状況である。

このような政治的大混乱を遠くで眺めていると、なんとも痴話げんかの絶えない家庭でのドタバタ劇に見える。単純化し過ぎとのそしりを覚悟の上でたとえ話風にすると、以下のようになる。

イギリスは普段から家庭に不満を持ち、いろいろな点でEUに文句を言ってきた。EUは細かいことにうるさい。自分の行動にはケチばかりつける。自分の稼いだお金を生活費だといって持って行ってしまう。そのくせうるさい子供(移民)は自分に押し付けようとする…。

ある日、日々の不満の憂さを晴らそうと一杯ひっかけ、勢いあまって大暴れし、気がついたら離婚届の書類に押すつもりのないハンコを押してしまった。

翌日眼が覚めると、自分はなんてバカなことをしたのだ、これまで自分が(経済的に)やってこれたのはEUと一緒にいたからじゃないか。EUから切り離されたら自分は生きていけなくなるんじゃないか。既に周りは大騒ぎして自分の周りから離れていこうとしている(ポンド、株式市場の下落)。

どうしよう、どうしようとあたふたする中、EUは判を押してしまった離婚届を取り上げ、この届を市役所に持って行くかどうかはあなた次第、と最後通牒を突き付けている。イギリスは何とかEUとの関係を維持したまま、穏便に離婚しようとしているが、EUは「そんな交渉には応じない」と一蹴。イギリスの混迷はさらに深まり、自らの行動に自問自答を繰り返している。

これからイギリスは酔っ払った勢いで判をついてしまったことを後悔しながら、それでも何とか離婚した後も上手くやって行けるような離婚調停を進めなければならない。しかし、二日酔いのせいで頭が回らず、酔っ払った時に「離婚するぞ!」と大胆に言い切った時の勢い(ボリス・ジョンソン)はどこかへ行ってしまった。また、酔っ払っている最中は「離婚したらまずいんじゃないか」とささやいていた理性(労働党)も、悔恨の念にさいなまされ、これからのことを考える際には全く役に立っていない。

こんな二日酔いの状況の中で、イギリスはこれからの身の振り方を考えなければいけない。離婚届は既にEUが持っている。イギリスが離婚することに同意(リスボン条約第50条に基づく通告)すれば、そこから離婚調停を行い、2年間のうちにうまく調停がまとまらなければ、慰謝料やら養育費やら財産分与が全くないまま放り出されることになる。そうならないように事前交渉をしようと思ってもEUには取りつくしまがない。

イギリスは離婚届をEUに握られたまま、正式に離婚手続きに入ることを避け、ずっと逃げながら居心地の悪い家に住み続けるか、それとも全てを失う覚悟で離婚手続きに入り、捨て身の覚悟で交渉するしかない状況にある。

二日酔いに苦しむイギリス。これから苦難の道が待っているが、日々のストレスに晒されている他の国々にとっても、他人ごとではない。他山の石とすべく、この事態を見守っていくしかない。

2016年6月26日日曜日

「デマ」時代の民主主義

イギリスの国民投票の結果を受けて、世界中が混乱している。為替相場も株式市場も投票の行方に左右され、欧州各国もその結果を受けて右往左往している。その詳細は既にあちこちで議論されているので、ここで繰り返すつもりはない。

ただ、イギリスのEU離脱の衝撃の影で大変気になることが一つある。それは、国民投票の結果が出てから24時間も経たないうちに、勝利した離脱派が、自ら主張した内容が虚偽であることを認めたということである。

ガーディアン紙はLeave campaign rows back on key immigration and NHS pledgesという記事で、離脱派のリーダーであったイギリス独立党(UKIP)のファラージュ党首は「EUに供出している3億5千万ポンドがNHS(国民保険制度)に支払われる」というのは間違いであることを認め、離脱派で保守党の欧州議会議員であるハナンは「離脱に投票した人はEUからの移民がゼロになると期待しているが、その期待は裏切られる」と発言したと伝えている。ハナンは「離脱をすることで、誰がどのくらいの人数入ってくるかのコントロールを少し強化するだけだ」とも語っている。

離脱に投票した人たちが何を期待したのか、ということを正確に知ることは難しいが、少なくとも国民投票前のキャンペーンではEUへの拠出金を国内に向けること、EUからの移民(しばしばシリアなどからの難民のイメージに重ね合わせて)を減らすことが出来る、ということを主張していたことは間違いない。それらが実現すると期待して投票した人たちから見れば、これらの発言は大きな衝撃であり、裏切りに見えるのかもしれない。

こうした「誇張された主張」、もう少し厳しく言えば「デマ」が公的な言説空間に持ち込まれ、それが政治的な決定を大きく左右するような影響力を持つことを大変危惧する。

この状況はイギリスだけでなく、アメリカでの「トランプ現象」にもみられる。メキシコとの国境に壁を築き、メキシコに支払わせる、日本や韓国の核武装を容認するといった、およそ現実的に実現可能性が低い主張を公の場で、何の確証もないまま選挙キャンペーンに用い、その結果、共和党の予備選を勝ち抜け、大統領候補としての指名を確実にするというところまで来ている。実際、大統領候補の発言のファクトチェックをしているサイトではトランプの発言は41%が「False(誤り)」であり、20%は「Pants on Fire(真っ赤なウソ)」であるとしている。

このような「デマ」がここまで力を持ちうるのはなぜか。

一つにはそうした幻想ともいえるような非現実的な政策であっても、公の場で語られることによって「本当に実現可能なのかもしれない」と思わせるような舞台設定があるからだと考えている。これまで公の場で語られることというのは、何らかのフィルターを通してチェックを受け、事実関係を押さえられた上で、実現可能という見込みがあるということが前提となっていた。そのため、「まさかそこまで嘘を言うはずはない」とか「きっと何らかの腹案があるはずだ」という期待があるため、いかに荒唐無稽なことであっても、それを信じる根拠として「公の場」で語られているということがあるように思える。

この現象は、SNS時代の政治コミュニケーションの特徴なのかもしれない、という気もしている。SNSではしばしば繰り返される「デマ」は見慣れた風景になっているが、その「デマ」が拡散され、多くの人に共有される現象を見ていると、それがSNSという場で表明されるということは「何らかの根拠があるに違いない」といった暗黙の期待があるように思う。また、その「デマ」を信じることで、自らの不満や怒りを収め、それらの感情を代弁してくれていると溜飲を下げ、それを信じ込むことで「デマ」が作り出す幻想に身を委ねることで心の安寧を獲得するということも、SNSの中では多く見られる。

こうした「デマ」への耐性の低さ、ないしは「デマ」に身を委ねることの容易さが、EU離脱派やトランプ支持者にもあるのではないかと思うのである。厳しい現実を前にして、日々の不満や鬱憤を晴らしてくれるような爽快な言説が公の場で展開されているのを見て、拍手喝采を送りたくなる気持ちというのが、こうした「デマ」への支持に転化しており、ファラージュもトランプもそれを知りながら、意図的に「デマ」を展開しているという側面もあるのだろう。

つまり、公的な場で「デマ」を繰り広げることへの自己抑制を失った政治家が、自らの権力を得る手段として「デマ」を意図的に活用するのが当たり前になった、と言うことなのだろう。

もう一つ気になるのは、こうした「デマ」を抑止する仕組みが機能していないことである。イギリスの国民投票においても、離脱派の主張を否定し、現実的ではないと指摘するメディアは数多くあった。しかし、その訴えは全くと言ってよいほど広がりを見せなかった。むしろ、現実に不満を持っている人たちから見れば、そうした「デマ」の否定は、エリートによる抑圧や既得権益の保全のための言説として見られていたのではないか、と考えている。

「デマ」を否定する人たちは、そうした合理的で理性的で冷静な分析をしたのだろうが、そうした冷静さそのものが忌避感をもって受け入れられているということは事実だろう。日々の生活にムカついている人たちにとって、「上から目線」であれこれ言われることほどムカつくことはない。その意味で、「デマ」をデマであると否定すればするほど、「デマ」が力を持つという循環が生まれてしまっている。

では、どうすればよいのか、ということについて答えはない。SNSでの「デマ」であれば、その「デマ」を否定する言説が多数現れ、それによって「デマ」が一部の人達に共有されるにとどまる、という現象も起きる。しかし、それがマスメディアを通じて拡散され、否定することが「デマ」を信じる人たちに拒否されるようになると、その先に「デマ」を否定する言説を展開する余地は無くなっていく。今回のEU離脱派のように、国民投票の直後に「デマ」であることを認めるというのは一つの方法であろうが、それは結果が出た後であり、ほとんど意味はない。つまり、現代は民主主義、とりわけ国民投票やアメリカ大統領選のような直接民主主義に近い仕組みにおいて、「デマ」が勝つ時代であり、その「デマ」を意図的に利用する政治家が存在する限り、政治が混乱する、という時代なのだ、という自覚を持つことがまずは大事だと考える。

つまり、「デマ」は元から断つことが大事なことであり、いったん「デマ」が出回ると、それを否定することは難しい。故に、政治家が「デマ」を活用しようとする誘惑をいかに断って行くか、ということが第一にやらなければいけないことである。政治家個人の倫理の問題でもあるが、同時に政治家を監視し、チェックするメディアの役目でもあるだろう。

またメディアの役目としては、もう一つ、そうした「デマ」を拡散しない、という役割もあるだろう。EU離脱派を支持したのはタブロイド紙が多かったが、これらのメディアが「デマ」を拡散することは昔からだったとはいえ、そうしたタブロイド紙による「デマ」の拡散を抑制する仕組み(それがどのようなものになるのかはわからないが…。)も考えていかなければならないだろう。

さらに、こうした「デマ」はSNSによって拡散されていく。既に述べたようにSNSで拡散されるデマは場合によっては抑制することは可能であるが、常にうまくいくとは限らない。そのため、SNSを利用する人たちが、そうした「デマ」を拡散しないことを意識していくしかない。しかし、これも容易な話ではない。

つまり、現代の政治、なかんずく直接民主主義的な環境においては、こうした「デマ」がはびこり、「悪貨が良貨を駆逐する」ような状況にある、ということは避けられないことなのであろう。しかし、避けられないからといって民主主義そのものを否定することはできないし、民主主義を否定すれば状況はさらに悪化するであろう。であるからこそ、現代の政治においては、より一層、個々人の意識、「デマ」に対する抑制的な態度が求められるようになっている。そうしたことをどのように実現するのか、ということは永遠の課題ではあるが、少なくとも、まずは現状をきちんと認識し、「デマ」がはびこる民主主義の時代に入ったことを前提に、これからの民主主義を考えていく必要があるのではないかと思うのである。

今回はEU離脱派やトランプ現象を踏まえて議論をしてみたが、良く考えれば日本でも、「最低でも県外」といった、実現性の薄い主張をして政権を取った政党があったことを思い出す。そして実現性の薄い主張が実現せず、残念な思いをしたことの記憶も新しい。「デマ」時代の民主主義は米英だけの話ではなく、日本でもすぐそこにある問題なのである。

2016年6月24日金曜日

イギリスの国民投票後の世界はどうなるかを考えてみました

大変久しぶりにブログ記事を書きます。これまで国連で仕事をしていた際には対外的な発信がなかなかできなかったこと、また、一度文章を日常的に書くことを止めてしまうと、なかなか書こうという意欲がわいてこないということもあり、しばらく放置してしまいました。

しかし、本日のイギリスにおけるEU離脱を巡る国民投票は久しぶりにブログに書くだけのまとまった思考と考察が必要な問題であり、ツイッターなどでの短文では言い尽くせないこともあるので、思いつくままにコメントしたいと思います。

第一に、今回の国民投票は必ずしも法的拘束力があるものではなく、最終的な決定は議会でなされなければならない、ということを確認しておきたいと思います。イギリスには「議会主権」という概念があり、全ての国家的な決定は議会で行うことになっています。とはいえ、今回の国民投票の結果を無視することはできず、いかに残留派が議会内には多いとはいえ、離脱する方向でこれからEUと交渉するということを決定することになると思います。

第二に、EUから離脱するためには長い時間がかかる交渉が必要となります。いみじくも離脱派が主張しているように、EUはあらゆる法律や政策の中に入り込んでおり、それらを解きほぐしながら、EUの影響を受けないようにするための調整をしていく必要があります。この時間がどのくらいかかるか全くわかりませんが、2年から3年くらいはかかるのではないかと思われます。

そうなると、今日離脱に投票をした人たちの感覚としてはせっかく国民投票をして離脱派が勝ったのに何も変わらないという状況が続く、という印象が強くなるのではないかと考えられます。今回の国民投票に先立って、離脱派はEUからの独立やイギリスの自由を謳いましたが、具体的に離脱派が勝った後何が起こるのか、というビジョンを提示していたわけではなく、離脱派が勝ったとはいえ何も変わらないという失望感や残念な思いが募るような状況が生まれる可能性は高いと思います。

第三に、国民投票で離脱派が勝ったとしても現在の議会内の主流派は残留派が多いことです。今のキャメロン首相は国民投票での敗北を受けて首相を辞任するだろうと思いますが、そうなると後継の内閣が誰になるのか。離脱派の中心であったボリス・ジョンソン議員を軸とした内閣が出来るとなると、イギリス独立党(UKIP)なども参加した内閣が出来ると思われますが、その内閣がEUと交渉をして、望ましい結論を得られるかどうか、またEUとの交渉以外の政治をきちんとマネージできるかどうかについては、やや疑問を持っています。これが離脱派に対する失望感とつながってしまう可能性も考えられます。

第四に、イギリスの総選挙は2011年の任期固定制議会法によって5年ごとに行われることになり、先の総選挙が2015年だったので、2020年までは選挙がない状態が続きます。しかし、EUとの交渉の進捗具合や国民の離脱派に対する失望が高まると、残留派が多くいる議会では解散の動議が出る可能性があります。任期固定制議会法では下院(庶民院)の3分の2が同意すれば解散できることになるのですが、残留派だけで3分の2を取るのは難しいとはいえ、国民のムードが離脱派から離れていけば、総選挙になる可能性もあると考えています。

そうなると、離脱派の勢いが落ち、議会で残留派が3分の2をとれば総選挙となり、離脱交渉を続けるかどうかということが争点になった選挙になるかもしれない、と考えています。離脱派の勢いが落ちているのであれば残留派が優位に選挙を進め、多分政権交代を伴って、残留派が勝利するという形になるのではないかと考えます。そうなると離脱交渉が中断され、結局現状維持に戻る可能性もあるのではないかと思います。

もちろん、この間には様々なことが起こりうるので、このようなシナリオになる保証は一切ありませんが、一つの可能性として、これからのあり方を考える上での思考実験として考えてみました。

しかし、これは今回の国民投票で離脱派に票を投じた人たちの不満を解消する結果にはならないと思います。離脱派に投票しても上手くいかず、結局現状維持を選択したとはいえ、それは昨日と変わらない、不満を抱えた日常が続くだけ、と言うことになるわけです。なので、今回の国民投票で見せた国民の不満はずっとくすぶり続け、よほどのこと(例えば想定外の経済成長など)がない限り、国民投票への欲求や不満のはけ口を求める声はこれからも続くように思います。

1973年にEUの前身であるEEC(欧州経済共同体)に加盟したイギリスだが、1975年にはヒース内閣(保守党)の下で国民投票を行っていた(結果はEEC残留)。その当時からイギリス、とりわけ保守党内部にはEurosceptics(欧州懐疑派)がずっと存在し、サッチャーも、メイジャーもこの欧州懐疑派の人達との戦いで疲弊し、政権をコントロールできなくなるという状況を経験していた。今回もキャメロン首相はそうした保守党内の圧力に対抗するために国民投票に救いを求めたのだが、結局国民投票からも離脱を突き付けられ、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。イギリスの政治はこれまでもずっと欧州懐疑派との緊張関係の下で続いており、それが今回の国民投票を経ても、まだ続くということは変わらないのだと思います。そういう意味では、今回は歴史的な出来事ではありますが、1973年からずっと続く、イギリスとEUの間で起こってきたことの延長線上にある出来事だとも言えます。

なので、今回の国民投票の結果は衝撃的ではありますが、イギリスとEUの関係はこれからも続いていくものであり、その中で、この結果がどのようにイギリスに、そしてEUに影響していくのかを見ていく必要があるのではないかと考え、このような愚考を披露させていただきました。

2014年2月21日金曜日

寺薗先生の有人宇宙推進論について

ずいぶん久しぶりの投稿になります。この間、プリンストン大学からの留学から帰国し、3ヶ月ほど日本に戻り、今度は国連で働くことになったので、ニューヨークに移るというバタバタした生活をしていました。国連での仕事はこれまでの仕事とは違うものなので、慣れるのにも時間がかかり、新しい勉強をしなければならず、なかなかブログを書く時間的・精神的余裕もありませんでした。

今も、時間的・精神的余裕はないのですが、ツイッターで会津大学の寺薗先生が大変刺激的なご意見を連投されていたので、それについてコメントしたくなり、そのコメントが長くなりそうなのでブログで展開することにしました。

寺薗先生のツイートにコメントする前に断っておきたいのは、ここでは先生のコメントに対して否定的な見解を述べますが、それは寺薗先生のご研究や人格に関わる非難でも批判でもなく、あくまでも日本が有人宇宙事業を進めるべき、 という論に対する批判ですので、その点ご了解いただければ幸いです。

さて、寺薗先生のツイートを引用しながらコメントしていきます。

ほらほら、日本はインドにも宇宙開発分野で「抜かれた」よ。松浦さんも言っているが、こうなることはわかっていたはずなのに、誰も手を打たなかったっていうのは一体どういうことなんだ。宇宙政策委員会の委員の皆さんの弁明とやらを聞いてみたい。ボコボコに叩いてやるから。
https://twitter.com/terakinizers/status/436691927744774144


寺薗先生のコメントは松浦晋也さんが書かれた「姿を現したインドの有人宇宙船」(宇宙開発の新潮流 NB Online)


もちろん、有人宇宙開発が宇宙開発の全てではない。日本は無人宇宙機で実績を積み重ねているのだから、無人のまま技術を積み重ねるべきだという意見もあるだろう。でも私はそうは思わない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692291395133440



大体、日本はまず有人宇宙開発にもう四半世紀も首を突っ込んでいる。アメリカとロシアに輸送手段を頼っているとはいえ、12人もの宇宙飛行士を輩出している国だということを忘れてはならない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692513617756160

しばしば有人宇宙開発を支持する議論として、これまでこれだけの投資をしてきたのだから、やめるべきではない、という議論がある。寺薗先生のツイートがそういう意図なのかどうかは明示的ではないが、そういう議論であるとすれば、それは経済学でいう「サンクコスト」の概念で説明されるべきであろう。企業が失敗してきた事例として、過去の業績や成功に囚われ、不採算部門を切れずにそのまま続けることで会社が傾くといったことが見られるが、有人事業についても、過去にどれだけ投資したとか、どのくらい宇宙飛行士がいるからといった議論で有人事業を継続すべきだ、という議論は積極的に支持できない。

また、無人宇宙開発が将来的に有人宇宙開発の議論になっていくというのはどの国の宇宙開発をみても明らかである。日本は有人宇宙開発についての議論を巧みに、あるいはわざと避けてきてはいるのだが、世界の趨勢を見る限りもうここから逃れることはできない。
https://twitter.com/terakinizers/status/436692733307011072

無人から有人に向かっているというのは果たして明らかなのだろうか。アメリカは国がやる有人から民間がやる有人に向かっているし、ロシアは過去の有人事業の遺産は維持しているが、新たなプロジェクトは無人が多い。中国、インド(+欧州) のトレンドだけを取り上げて「どの国も」や「世界の趨勢」というのは少し違う気はする。

なぜか。人工衛星の打ち上げを発注する側に立ってみれば、有人宇宙船の高度な(信頼性の高い)テクノロジーを有する国と、無人機しか打ち上げていない国なら、信頼性の高い国のロケットを選択するだろう。しかもインドや中国は価格の安さもある。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693005919985664

 この点については強く反論せざるを得ない。これまで商業打ち上げで圧倒的なシェアを誇ってきたのは欧州のアリアンロケットであるが、欧州は有人宇宙船の技術を持っていない。世界で最も複雑で高度な有人技術を持っているアメリカのロケットも一時期商業打ち上げに参入していたが、顧客が全くつかず(だれもアメリカのロケットで打ち上げようとせず)、商業市場から撤退した。ロシアのロケットは商業市場でも顧客を獲得しているが、それは技術が高いからではなく、価格が安いからである。つまり、有人技術があるかどうかは関係なく、価格と信頼性(実績)でロケットの選択は決まってくる。なので、有人技術がなくても、価格と信頼性のつり合いが取れれば人工衛星の打ち上げ受注は出来るし、有人技術の有無は無関係と言わざるを得ない。

安くて信頼性の高い国のロケットをわざわざ選ばず、高くて信頼性が低い…とはいわないまでも、有人打ち上げでないロケットを選ぶという理由はない。日本が宇宙開発を国家的戦略産業として選ぶなら、必ず有人という道に進む必要がある。それも今すぐにだ。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693352105254912

 上記のコメントから、ここで「必ず」「今すぐ」という議論は打ち上げ市場の現状から考えても、適切な判断ではないと言える。

ともかくまず、日本の宇宙開発は、中国だけではなく、インドにも抜かれたのだ、ということを前提にして立て直す必要がある。それも早急にだ。のんびりしている時間はない。いまやらなければ、5年後、10年後にもっと大きな差をつけられてしまうからだ。
https://twitter.com/terakinizers/status/436693888258932736

 繰り返しになるが、中国やインドに抜かれることに特に問題はないとみている。しかし、中国やインドが有人宇宙事業に積極的に進出する中で、日本はどうするのか、ということについては議論すべきである。

この「日本はインドにも抜かれた」という件は、昨年11月のインドのマンガルヤーン打ち上げのときにも言ったことではあるが、インドの宇宙開発動向について宇宙政策委員会では調査なり議論なりしているのだろうか? とにかく遅い、甘い、知らなすぎる。
https://twitter.com/terakinizers/status/436694863916957697

有人分野で抜かれることと、惑星探査(マンガルヤーンは火星探査)の分野で抜かれることは別次元の問題だと考えている。惑星探査の分野については、国際競争の観点から考える必要もあるし、宇宙科学全体の中での資源配分など、様々な観点から論じるべきであると考えている。しかし、惑星探査の分野で抜かれることと、有人分野で抜かれることは別の議論として論じる方が生産性が高いと思う。ただ単に「抜かれた」ということを起点として議論を起こすと、不毛な「宇宙競争」に突入し、貴重な人的・財政的資源を感情的な理由で振り向けてしまう可能性がある。それは避けたい。ゆえに「抜かれた」ということを起点に議論するのではなく、日本にとってどのように有人宇宙事業を考えるべきか、どのように惑星探査・宇宙科学を考えていくべきかについて論じるべきだと考えている。

寺薗先生のツイートはここでまとまっているが、その後「毎日宇宙」という毎日新聞の記者さんがやられているアカウントでの関連ツイートもあるので、それについてもコメントしておきたい。

松浦さんの記事と寺薗先生の連投を読了。確かに、宇宙開発委員会時代から、有人輸送に関する議論を避けてきた印象はあります。お金の問題ではなく世論形成、突き詰めて言えば、死者を出す覚悟が共有できていないことへの懸念が強かったように思います。
https://twitter.com/mainichi_cosmos/status/436711081604435968

 死者を出す覚悟が出来ていなかった、というのはその通りだと思うのだが、問題はそれだけではないようにも考えている。死者を出す覚悟がなかったのはJAXAと宇宙開発委員会の及び腰が原因で、有人宇宙事業に対する国民的支持は大きく、世論形成は出来ていたと思う。ただ、問題はそれだけではなく、政治家と財務省を説得できるだけの有人をやる正統性がなかったからだと考えている。

(続き)松浦さんや寺薗先生がご指摘のように、あと数年後には主要国がそろって有人輸送機を持つとなると、正面から議論する必要があると思います。もし有人機をやらないなら、カナダのように何かに特化した技術で、それこそ戦略的に存在感を発揮しなければなりません。
https://twitter.com/mainichi_cosmos/status/436712190410641409

最後の一文はその通りだと考えている。有人をやるかやらないか、という議論を出発点にするのではなく、日本が宇宙開発で何をやり、どのように戦略的に存在感を発揮するべきか、という議論を出発点にして、そのために有人事業が必要かどうか、という議論にしていくべきだと考えている。

間違っても、「外国がやっているから私たちもやる」という議論や、「抜かれたから追いつかなければいけない」という合理性よりも競争心を煽り、政策的な合理性があるともいえない議論に拘泥するべきではない。