2011年5月15日日曜日

忘れてしまう能力

近代の仕組みというのは、強い個人を前提としている。つまり民主主義にしても、資本主義にしても、法体系にしても、個人が判断し、自らがリスクを背負い、自分の行動の責任を問うことが前提となっている。原発の問題にしても、きちんと情報を明らかにし、透明性を高め、その情報をもとに個人が判断して行動することが求められている。

しかし、普通の人は原発のことも、放射線のことも、技術のこともよくわからない。なので、必然的に専門家の意見に依存するしかないし、その判断を国や政府機関に委ねるしかない。しかし、専門家は多数いて、それぞれが異なる意見を表明し、それが「透明性」をもって表に出てくるので、いったい誰の意見が正しく、誰の意見が間違っているのかを判断することができない。

そのため、何が危険で何が危険でないのかを、国や政府機関に判断してもらうしかない。それが正しいか正しくないかを見極める力がなければ、「一番信頼できそうなもの」の意見に従うのが一般的な反応であろう。

しかし、問題は、その国や政府機関が情報を隠したり、誠意をもって説明しなかったり、「自主避難」のように個人の判断にゆだねるような指示を出したりすることで、一般の人の不信感というか、戸惑いがあるのだろうと思う。

そこで国が何らかの形で判断をすれば、そこに国の責任が生じる。国は権力機構であり、その指示は強制力を伴う。そのため、何らかの判断をし、指示を出せば、それによって生じる結果に責任を持つことになる。たとえば、強制的な避難指示を出せば、その避難によって生じる損害を賠償する責任が生じる。それは、国にとっては負担となり、そうした責任を取らない、取りたがらないという反応になりがちで、よほど確証がないことは判断することを避けようとするだろう。それゆえに「役所仕事」のような官僚主義的、前例主義的な対応になっていくものと考えられる。

ただ、現在の民主党政権はかなり「無節操」に国の責任を強調する。浜岡原発にしても、震災復興にしても、首相自ら、官房長官自ら「国の責任において行う」という発言を連発する。個人が背負いきれないリスクを国が取るということを否定するつもりはないが、国が判断基準を示し、一般の人々の判断材料になるだけの理由や根拠を示しているのか、といわれると、やや怪しい気がすることがしばしばである。むしろ「思いつき」で国の責任を口にしているような印象さえ受ける。

こうした姿勢は、結果として判断をする能力のない一般の人々が、自らリスクを取って判断するしかない、という状態に追い込み、それが戸惑いを生む、という循環が起きる。今回の福島第一原発の事故は、そうした問題があからさまになったケースであろう。

ここで重要になるのは、国がきちんと信頼されているという状態でなければならない、ということである。国がきちんと専門的な知識を持ち、それに基づいて判断し、きちんと結果を出していくことに信頼感があれば、現在のような混乱や不安は起きてこないであろう。しかし、現在、国が出している基準というのは、良くわからない「暫定基準値」や「ただちに健康被害がない」というような基準であり、それが何を意味しているのか、どのように判断してよいのか、という一般の人にわかるような判断基準になっていない。その結果、不安が払しょくされていかないのである。

他方、政府は「データを出せば国民がパニックになる」と考えてデータの出し渋りや、情報隠しと思われるようなことを行い、国民に判断させることを控えさせるようなことをしてきた。そして、それが批判されると、今度は専門的なデータ(何ミリシーベルトなど)をダダ漏れさせ、そのデータを踏まえて勝手に判断しろと言わんばかりの対応をしている。

こうなると、人々は国への信頼感を失い、何を信じてよいかわからない状態になる。それゆえ、流言飛語や口コミ、デマなどに依存する可能性が高くなる。それは外国に向けても同じことであり、日本政府の言うことが信頼されなければ、変な風評被害が拡大することとなる。関東大震災の後に朝鮮人虐殺が起こったのも、そうした背景があったものと想像する。

さらに恐ろしいことは、こうした国への信頼感が失われ、何を信じてよいかわからないような状態になると、変なナショナリズム、ポピュリズム、原理主義などなどが流行りだす可能性がある。まだ日本ではそうした兆候がみられるわけではないが、人々が不安になり、国のことを信頼できなくなるようになると、どんないい加減なことであろうと、自信を持って強硬に主張するような人が妙にカリスマ化し、フォロワーが増えていくような状況が生まれる可能性はある。そうならないようにするためにも、専門的な知識がなく、不安になっている人々に向けて、信頼を得られるようなメッセージを出すことがリーダーに求められるのだろうと思う。

しかし、残念ながら、そうしたことができていない。それがゆえに、多くの人が不安のまま日々を過ごし、何とかリスクを小さくしようとして買いだめなどをしたりする。しかし、人間の能力としてさらに凄いことは、そうしたリスクを「なかったことにする」「忘れてしまう」「無視する」ということができる、ということである。毎日、リスクにおびえて生活することはしんどい。だから、それを忘れてしまうことで、つまり自分をごまかすことで、日々の生活を安定させようとする働きが起きる。そうなると、怖いことは考えない、そんなことを考えるとまた不安になる、ということから、思考停止というか、考えること自体を止めてしまう。

実は、日本の戦後65年というのは、ずっとこの連続だったのではないか、という気がする。原発のリスクも、「もんじゅ」の事故も、地下鉄サリン事件も、テポドンが飛んできたことも、「唯一の被爆国」であることも、みんな一通り忘れてしまうこと、考えないようにすることで、日々の生活を平穏に過ごしてきたのではないだろうか。そう考えると、しんどいことではあるが、常にこうしたリスクを意識し、怖いことを考えながら、不安を抱えながら生活すること、つまり、近代の仕組みにのっとって「強い個人」になることが、問題を解決していく唯一の方法なのだろう。もうひとつの方法は、国が信頼感を取り戻すことなのだが、こちらにはあまり期待していない。

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