2011年5月16日月曜日

国際公共財としての原発事故

東京電力は福島第一原発の1号機は16時間以上「空だき」状態であったことが明らかになってきた。この背景には、1号機の水位計が復活し、ようやっと正確なデータを得ることができるようになったことがある(毎日新聞の記事)。これで確固たるデータを基にした状況判断ができるようなった。

これは言い方を変えれば、これまでの東電や政府機関が発表してきた内容は、基本的にデータに基づかない推測でしかなかった、ということである。確かに常識的に考えれば、地震によって計器が正常に作動しているという保証はなく、あれだけ大量の水を注入しているのに、その水がどこに行ったのかもわかっていなかったはずである。

しかし、こうしたことが伝えられていなかったのはなぜなのだろう。むしろ、我々が接していた情報は一体何に基づいて報道されていたものなのだろう。そう考えると、これまで我々が接していた情報は単なる「当て推量」だったのではないか、という気になってくる。

確かに、メディアも世論も外国政府も産業界も、みんな事故の状況の説明を求め、東電や保安院は限られたデータの中で何らかの「推測」をしなければならなかったのだろう。また、専門的な「○ミリシーベルト」といった原子炉の外から計測できる数値を可能な限り出し、できる限りの透明性を図ったものの、外国メディアなどからは「単なるデータだけでなく、それを整理して解説してほしい(英語ではContextulizeしろ、という単語を使っていた)という要望が出ていた。

そのため、きわめて限られたデータの中で「推測」をし、現在何が起こっているかということをわかる範囲で説明していたものと思われる。しかし、ここで重要な問題は、報道する側が、かなりの程度、東電や保安院から流れる情報をダダ漏れのように報道し、そこに疑問や批判を挟まなかったことにあるように思える。

このような事故の場合、重要なデータが得られていないため、東電や保安院の説明はどうしても「推測」、いや実際には「あてずっぽう」なものにならざるを得ないだろう。本来ならば、こうした事故の時でもきちんとデータをとれるような設計をしておくべきであるが、それを今から言っても仕方がないので、現時点ではわかる範囲のデータから「あてずっぽう」な話をするしかない。しかし、それを「政府発表」「東電発表」とし、あたかも「事実」であるかのように報じてきた側には一定の責任があるだろう。私はずっと「どうしてこんなに注水しているのに、水があふれてこないのだろう」ということに疑問を持っていたが、その疑問に答えるような解説、説明、報道記事は見かけたことがなかった。私のような素人でも想像がつくような問題をなぜメディアは取り上げなかったのか。どうしてもそこが解せない。

これが上杉隆氏のような論調であれば、「記者クラブ制度が悪い」という話になっていくのだろうが、事態はもう少し深刻なような気がする。それは、報道する側が「政府の言うこと、東電の言うことは事実に違いない」という思い込みが働いているような気がするからである。もちろん、記者の側には一次データがないのだから、政府や東電が提供するデータを信用するしかないのだが、そのデータが不完全なものであり、他の解釈が可能、ということは大いにあり得るはずなのに、それについてはほとんど問われていない、ということが気になる。

震災直後から東電の記者会見や保安院の記者会見などがテレビで生中継されることがあり、可能な限り見ていたが、それを見る限り、記者から出る質問は「これからどうなる」とか「誰に責任がある」というたぐいの質問が多く、東電や保安院の「推測/あてずっぽう」とは違う解釈もあり得る可能性を示唆するような質問は多くなかったように記憶している。その結果、東電や政府が出している「あてずっぽう」が、いつの間にか「事実」として独り歩きし、その「事実」に基づいて「工程表」が作られ、将来に向けての対応が進められている。

結局、何が言いたいかというと、一つは、記者や世論の間にある、政府や東電の「無謬性」に対する信頼は、あれだけの事故が起こっても変わらないのだな、ということと、もうひとつは、日本のマスコミが持つ「批判精神」の欠如である。批判精神というのは、単に文句を言うとか、他者を追い詰めるということではない。批判精神というのは、「事実」と思われることに疑問を持ち、それに対して、異なる「事実」の可能性、解釈を提示し、それをぶつけていくことで、「真実」を見出そうとする行為であると考えている。言いかえれば、批判するという作業は建設的な議論をすることであり、自分が「事実」と思われることに対する「対案」を用意することだと思う。

その点について、もう一つ気になる話が、IAEAの閣僚会議に向けて、日本政府が用意している報告書の話である(北海道新聞の記事)。これは事故直後の緊急対応が妥当であったと評価し、政府や東電の取り組みが前向きであるということを評価する内容となっているようである。少なくともこの記事の中身だけ見ると、この報告書はかなり国内世論や国際世論と評価が異なっているように思われる。また、かなり自己正当化というか、自己弁護がすぎるように感じている。まあ、政府が出す報告書であるから、政府の対応を否定するようなものが出てくることは期待できない。なので、このように自己弁護するものが出てくるのはある程度想定内のことであろう。

しかし、この記事を読んで気になったのは、事故後(Post accident)の対応が良い、悪いという評価は確かに重要であるが、もっと重要なことは、事故前(Pre accident)の対応がどうであったのか、ということである。諸外国においては、原発事故に対するさまざまな準備がなされており、事故のシナリオに基づいたマニュアルや、事故に対応するための装備が準備されている。日本にはそうした「事故前」の準備がまったくできていなかった。それは、これまで議論してきたように「安全神話」があり、事故が起こることを想定すること自体がタブー化されていたことに原因があった。

本来ならば、IAEAに提出すべき報告書には、こうした「事故前」の準備の欠如が、「事故後」の対応を遅らせ、迅速な対応ができなかった原因である、ということを真摯に認め、それを教訓として国際社会に提示することである。諸外国においては、さまざまな準備があるとはいえ、実際にこれだけのシビアなアクシデントを体験したのは、チェルノブイリのソ連(ウクライナ)を除けば日本だけである。つまり、この経験を国際公共財として提供することが、日本としての義務であり、国際社会から白い目で見られ始めている日本の立場を回復する手段と考えるべきである。間違っても、自己正当化や自己弁護でこの機会を逸してはならない。

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