2011年7月10日日曜日

「ストレステスト」は国際的な監視の下で行うべし

先週、菅首相が突然のように言い出した「ストレステスト」。これをめぐって大きな騒ぎになった。佐賀県の玄海原発の再開を巡って、原子力保安院の責任者である海江田経産大臣が「国が責任をもって」原発再開に伴う安全を保証する、という話をし、それを立地自治体である玄海町が受け入れ、佐賀県知事も受け入れることで原発再開にあと一歩という段階にまで至った。しかし、そこで突如として菅首相が国会答弁で、これまでの安全基準では不十分であり、「ストレステスト」を行うということを発言したため、結局、玄海原発が再開できるのかどうか、閣内で意思統一ができているのかどうか、政府の「思いつき」で原子力政策を進めてよいのかどうか、など、さまざまな論点が挙げられている。一方では、首相の思いつきで重要な政策決定が行われていることに対する不信感や、政治的なリーダーシップの欠如を避難する議論が多いが、他方で、ストレステストによって原発の安全性をより高いレベルで確保するのだから、菅首相の判断は正しいと擁護する議論もある。

ここで問題にしたいのは、いったい「ストレステスト」とは何なのか、そして、海江田大臣が口にした「国の責任で」ということが何を意味しているのか、ということについて考えてみたい。

まず、菅首相が発言した「ストレステスト」の具体的な中身については、まだ何も決まっていない。これまでの政府発表を踏まえれば、EUのストレステストをモデルにしながら、日本の実情に合ったものにする、とのことである。では、EUのストレステストとはどのようなものなのだろうか。

EUが採用しているストレステストは欧州原子力安全規制グループ(European Nuclear Safety Regultors Group: ENSREG)の中の西欧原子力規制連盟(Western European Nuclear Regulators Association: WENRA)が福島原発事故が起こってから10日後に提案したものである。EUは即座にストレステストを実施することに合意し、すでに5月には詳細な検査項目が定められ、6月からテストが始められている。最終的にこのテストは2012年の4月に完了することが目指されているが、その間も各国の原発は稼働している。

というのも、すでに日本でも報じられている通り、EUのストレステストは、基本的にはシミュレーションであり、原発を止めて機械的に検査をするのではなく、さまざまな極限状態を想定し、そこで想定される物理的、制度的なストレスにどの程度耐えられるのか、ということを検査するものである。仮に、この検査で安全性に疑問が出たとしても、それは何らかの罰則の対象や稼働停止につながるのではなく、あくまでもそうした命令を出すのは各国の規制当局であり、EUはその規制当局が判断するための材料を提供すると言う立場である。

このストレステストでは、以下の項目が検討されることになっている。これもすでに報道されているので詳細は割愛し、EUのウェブページ(英語)にあるので、こちらを参考にしてほしい。基本的には、地震や洪水が起こった際、電源喪失や冷却機能の喪失が起こったことを想定し、その際に、原発施設や危機対応の制度がきちんと機能するかどうか、どの程度の余裕があるのかを検査することになっている。

また、原発テロなどについては、安全保障上の懸念があるため、ENSREGなどで扱わず、各国の規制当局が個別に対応するということになっている。これについては、原発に対して最も厳しい態度をとっているオーストリアが強硬に主張してテロや航空機の衝突といった「意図された破壊」に対する備えも取らなければならない、ということが定められている。

しかし、これはあくまでも「机上の空論」である。どのような災害を想定するのか、どのような事故を想定するのかによって、ストレステストは「操作可能」になっている。そのため、各国の規制当局(その国の「原子力ムラ」の一部となっている場合もある)が甘い設定をすることを防止するため、EUのストレステストで重視されているのがピアレビューである。

日本の議論で最も欠けているのは、このピアレビューの問題だと考えている。というのも、ピアレビューを実施することによって、一国の規制当局が自国の原子力産業や電力会社に甘いハードルを設定することを難しくさせるからである。EUは市場統合が進んでいるとはいえ、原子力の分野や電力市場の統合はまだ不完全である。原子力に関しては、日本でも有名になったフランスのアレバ社の株の90%は政府が保有する実質的な国有会社であり、政府と原子力関連企業との関係は密接である。また、電力に関しては、自由化を認めているイギリスのような国もあるが、いまだに国営の電力会社が独占しているフランスのような国もある。そのため、一国の規制当局が自国のストレステストだけをやると、甘い結果を出す政府が出てくる可能性があるため、ENSREGや他国の規制当局がレビューすることで、いい加減なテストができないということと、ストレステストに関する情報の透明性を確保するということを徹底することで、各国の「原子力ムラ」の好きなようにはさせない、という決意が見える。

というのも、この背景には、金融部門のストレステストの失敗の経験がある。リーマン・ショックによって欧州も大きな衝撃を受け、EUの加盟国ではないがアイスランドが破たんし、イギリスやアイルランド、そして欧州大陸の大銀行も大きなダメージを受けた。さらに、ギリシャが政権交代を機に財政破たんしたことを明らかにすると、ギリシャ国債を大量に保有する欧州の銀行が多数あったため、欧州の金融システムの危機が叫ばれるようになった。そのため、2010年に主要銀行91行の健全性をテストするということで「ストレステスト」を実施し、そのうち7行のみが不合格とする検査内容を発表した。

しかし、このストレステストは大きな疑問を残すテストであり、本当にこれで銀行の健全性が証明されたことにはならない、ということが明らかにされている。たとえば、ギリシャ国債を保有している銀行(ドイツやフランスに多い)は、その時価で評価するのではなく、もしギリシャ国債を満期まで保有し続けるとすれば、それは健全債務として扱う、という条件が付いている。これは、ギリシャの財政が破たんせず、満期が来たらギリシャはきちんと国債を償還できるということを前提としているが、すでに明らかになっているように、ギリシャが本当にデフォルト(リスケジュール)せず、債務をきちんと履行できるのかについては、大きな疑問がある。

要するに、EUが行った金融のストレステストは、表向き欧州の金融システムは健全だ、ということを宣伝するために「操作され」ていたといっても過言ではないだろう。この教訓があるからこそ、EUの原発のストレステストでは、各国が都合の良い形で操作することなくテストを行えるような仕組みを作るということに腐心したのである。

ここで、金融のストレステストと、原発のストレステストの原理的な違いを抑えておく必要がある。というのも、EU域内では金融システムは密接に連動しているだけでなく、すべての国が「欧州の金融システムは健全である」ことを証明したいと言うインセンティブをもっている。そのため、EU全体で行い、一国レベルではなく、EUレベルで基準を設定したストレステストであっても、すべての銀行に甘い設定になったのである。

それに対し、EU各国の原発への姿勢は大きく異なる。すでに述べたオーストリアや「脱原発」を決めたドイツなど、明白に原発から距離を置く国もあれば、フランスや中東欧諸国のように原発に依存する国々もある。つまり、金融の時とは異なり、EUのすべての国が一致した利害をもっているわけではない、という点が大きな違いである。そのため、ピアレビューという、異なる利害をもった国々が、原発事故が起きた場合の自国への影響などを考えながらレビューをするということが、検査を甘くさせない抑止力になっているのである。

さて、翻って日本のストレステストは、こうした抑止力をもっているのだろうか。現時点で、まだ詳細が明らかになっていないだけに、簡単に断定することはできないが、これまでの議論を見ている限り、どうやらノーである。日本のストレステストの基準の設定を行うのは、どうやら原子力保安院と原子力安全委員会ということになりそうだが、これらの組織はいずれも「前科」がある。彼らはこれまで「日本の原発は安全」と言い続け、「安全神話」を作り上げてきたが、実際はそうではなかったということは福島原発の事故が証明している。つまり、保安院や原子力安全委員会、もっといえば日本政府がこれまで作ってきた安全基準の延長としてのストレステストでしかない。

すでに「原子力ムラ」としての排他的な専門家集団を作り出し(保安院に関しては、経産省の出身者が多いため、原子力の専門家と言えない人も多い)、原発を推進する立場からの監督を行ってきたとみられてきた原子力保安院や原子力安全委員会が設計したストレステストは、欧州における金融のストレステストのようなものになりかねない恐れがある。

では、どうしたら良いのか。一言でいえば、日本でもピアレビュー、もっといえば、外国の規制当局やIAEAに全面的に情報を開示し、そのうえでストレステストを実施することである。日本の政府機関、規制当局が行うストレステストの抑止力を高めるためにも、こうした国際的な監視は必要であろう。あたかも、独裁国家が始めて行う民主主義的選挙のように、日本の原発の安全検査も、外国の監視を受け入れるのが最適な選択だと思われる(残念ながらそのような議論は管見の限り見受けられない)。

そこで、ややこしい話になるのが、海江田大臣が発言した「国が責任をもって」というセリフである。すでに信頼感をなくし、原発管理の正当性すら疑われかねない政府が、どのように責任をもって原発の安全を保証できるのか。これまで「安全神話」を作り、原発は大丈夫だと言ってきた、その同じ口で、玄海原発は安全だ、国が保証すると言ったところで、本当に福島原発のような事故が起きないと信じることができるのだろうか。

しかも、「国が責任をもつ」ということは、外国に依存しない、ということも意味する。最終的な責任(アメリカでいうところのThe buck stops here)を国が取るということは、他の誰にもその責任を委譲しない、ということを意味する。実際のところ、「国が責任をとる」といっても、どのような責任をとるのか、福島原発の賠償についても法案が通っていないような状況で、もし玄海原発に何かが起こった時、国はきちんと賠償できるのか、SPEEDiのデータは開示するのか、適切な避難指示はできるのか、という疑問を立地自治体は考えるわけだが、福島でそれができていないのに、どうして玄海原発で「国が責任をもって」それが実施できるのか、ということは明らかにされていない。

経産省、保安院が何としてでも原発を再開し、電力を安定供給させたい、という意図をもっていることは理解できるし、安全が確保されるのであれば、将来的な脱原発を目指すとしても、現時点では、既存の原発を再開させるという選択肢が一つの選択肢として存在することは認めたい。しかし、国が空虚な「責任」を主張し、立地自治体の住民から信用されず、しかも永田町のつまらない政争や権力争いや役所の縦割りや政官のごたごたなどで日替わりメニューのように原子力政策がコロコロ変わる中で、安心して既存原発の再開をすべきだ、と主張する気にはならない。

そのためにも、「国の責任」などという、見栄と虚勢を捨て去り、政府が立地自治体の住民のみならず、国民から信頼されなくなっていることを真摯に受け止め、自らの能力の不足とこれまでの原子力政策を猛省し、国際機関や外国規制当局の力を借りて、日本の原子力政策を根本から見直すこと、そして最終的に、既存原発をどこまで動かし、いつ脱原発を成し遂げるかという工程表を作ることが重要なことである。福島の住民のみならず、多くの人々の生活を傷つけ、人々の心を傷つけた政府の責任の取り方は、こうあるべきである。

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