2012年7月2日月曜日

リスクは客観的に評価しうるか


昨日のブログ(「官邸前原発再稼働反対デモに感じた違和感」)を書いたところ、様々なコメントをツイッターやブログのコメント欄でいただいた。ツイッターでいただいた一つのコメントに対する返答が長くなったので、ブログを使って返答させてもらいたいと思います。

その質問は次のようなものでした。

疑問の一つはリスクの客観性の度合いにある、と思います。むろんリスクは完全な客観や主観はなく、その間だと思うのですが。

リスクは発生確率×社会的インパクトですが、客観的に確率を測ることは難しく「明日にでも津波が来る」と思う人と「1000年に1度なのだから明日は来ない」と思う人の間で間主観的な確率の合意はできません。

なので、可能な限り社会的合意を得ようとするなら、科学的な根拠を基礎に客観的な判断をする必要がありますが、複数の科学的根拠が利用可能な場合、主観によって客観的情報を選択せざるを得なくなります。リスクに関する社会的合意を客観的に作ることは難しく、複数の主観によるリスク評価を付きあわせて「最も合理的と思える」評価をしていくしかないと思います。

その際、一番問題なのは変なデマや不正確な客観的情報を出してリスク評価を混乱させることです。なので、そうした不正確な情報を排除し、客観的合意ができる範囲を拡大しながら、リスク評価の幅を狭めていくことで「社会的に合理的」と思える評価を作っていくことが大事だと思います。

またもう一つ問題なのは「客観的情報は一つ」と考える思考方法です。ある客観的な情報が正しいと認定してしまうと、他の情報は間違っており、科学的に断定できない事象について他のリスク評価を排除する結果となってしまいます。そうなると「社会的に合理的」なリスク評価を定めることができず、混乱が収まりにくくなります。

したがって、リスク評価をする場合、可能な限り客観的に合意できる範囲を拡大するために、デマや不正確な情報を排除すること、そして主観的な合意を形成していくために、他者の主観的なリスク評価を排除せず、互いにコミュニケーションを開放して議論を交わしていくチャンネルをなくさないことが一番重要だと考えています。

「リスクの客観性」という言葉は、個人的にはあまりなじまないと考えています。リスクを評価する際の「発生確率」は一般的な客観性を得られるとしても(たとえば飛行機が事故を起こす確率は10のマイナス6乗)、実際、自分が乗っている飛行機が落ちないという保障はないからです。リスクの引き受け手からすれば、どんなに確率が低くても、その事象が自分の身に起これば、それは100%になってしまいます。なので、リスクの引き受け手から見ると「リスクの客観性」など意味のないことになってしまいます。

しかし、それでも人間は全くリスクフリーの状態の中で生きていくことはできません。街を歩けば交通事故にあうリスクもありますし、リスクを減らすためにずっと家にいたって地震でタンスの下敷きになったり、火事になったりします(私は阪神淡路大震災で何人か知人を失ってます)。

つまり、生きていることそのものがリスクだらけであり、どのようなリスクをどうやって取っていくか、ということはその人の生き方を決めることなのだろうと考えています。すべてのリスクを回避することはできない以上、何をAcceptable Riskとして考えるか、ということが重要になってきます(Acceptable Riskについては過去のブログ記事をご参照ください)。自分にとって、そのリスクを引き受けることで得られること(便益)と、そのリスクを回避するための費用を計算し、リスク<費用<便益という式が成り立つのであれば、リスクを取る意味は十分ありますし、費用<リスク<便益でもリスクを取ろうとする人はいるでしょう。ただ、費用<便益<リスクという式になってしまうと、そのリスクを取る意味はない、という判断になります。

この三つの式は、それぞれ個人的に判断する費用や便益によっても変化します。また、リスク評価によっても変化します。なので、リスクに対する考え方=その人の生き方ということであれば、それは主観的なものだと考えます。

その際、客観的な情報がどのような意味を持つかというと、それは単なる目安、指標だと思います。個人がリスク評価をすることは非常に難しいです。何がどのくらい危険なのかということを直感的に判断することができることもあります。たとえば車通りの多い道で急いでいる(便益が高い)ので赤信号を無視するというのは、いくら便益が高くても直感的にリスクは大きい(つまり発生確率は高く、それによるインパクトも大きい)と考えることができます。その時、別に客観的情報(赤信号を無視した場合の交通事故発生件数などのデータ)は必要ありません。

しかし、原発事故のリスクや飛行機事故のリスクなどは直感的にはわからないものです。確かにあれだけ巨大なシステムがなんの事故もなく動くこと自体、直感的には不思議な感じがします。私も飛行機にはよく乗りますが、あんな鉄の塊(最近は複合材の塊というべきか)が空を飛ぶこと自体、直感的には違和感があります。しかし、それでも飛行機に乗らなければ、得られる便益が得られないので、仕方なく乗ります。その際、参考にするのが、先ほど紹介した10のマイナス6乗、つまり100万分の1という数字です。ざっくり言ってしまえば、世界中で飛んでいる飛行機の100万回のフライトのうち1度の確率で機体を失うような事故が起こる、という情報です。これは航空安全の規制によってこの確率が担保されているだけでなく、実績として、これだけの確率で事故が起こるということを実感することができるので、信頼できる「社会的に合理的」な情報だと考えています。

しかし、それでも人によっては、客観的なリスク評価が確立していても、やはり飛行機に乗るのは怖い、という人はいると思います。それは直感的に怖いと思う気持ちが、便益よりも大きく感じる(便益<リスク)のであり、そのリスクを回避する費用が小さい(費用<便益<リスク)と考えているからだろうと思います。

飛行機の場合、個人的な判断で乗る、乗らないを選択できるという点で、原発事故のリスクとは異なります。原発事故は個人で回避することができず、社会的にリスクを引き受けなければいけないからです。そうなると、複数の主観によって構成される社会において、そのリスクを「社会的に合理的」に評価することは極めて難しいと思います。また、すでに述べたように、客観的情報ですら確定しておらず、地震や津波の発生確率、ヒューマンエラーの発生確率などを正確に出すことは現代の科学では難しいことと思います。さらに、そのリスクを社会的にAcceptable Riskとすることは難しいと考えています。

故に、上述したように可能な限り客観的なデータを提供し(デマや不正確な情報を排除し)、社会的にオープンなリスク評価のコミュニケーションをしていくしかないと考えています。その際、「社会的に合理的」なリスク評価を出していくに当たって、「安全神話」の罠に陥らないようにすることは大事かと思います。この点については、先日東大のシンポジウムで話をさせてもらったので、ここでは割愛します(その時の内容がウェブ上に記事となって出ていますので、ご参照ください)。

なので、「リスクの客観性」という表現はなじめないのです。リスクの評価は主観的なものであり、客観的な情報はその判断をする際のリファレンスであること、そしてそのリファレンスを「社会的に合理的」なものにしていく努力(デマなどを排除する)を続けること、そして、そのうえで「社会的に合理的」なリスク評価(何をAcceptable Riskとするか)をするためのコミュニケーションをしていくことが大事なのだろうと考えています。拙い返答ですが、私の思うところを書かせていただきました。

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